やゆよのあゆみ

木の花ファミリーという共同体で、人と自然と調和して暮らしています。生きることとか人間のこととかを書いていきます。

感情は個性を磨く原動力

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 ※木の花ファミリーの子供達

 

自己観察において、感情は非常に重要でわかりやすいセンサーになる。それについては、また後に書くとして、今回は新しいことに取り組む際の、感情の役割について話してみたい。

 

子供を観察していればわかることだが、子供は新しいものに自然と興味を持つ。好奇心の塊であり、新しいもの、新しいことをどんどん吸収し自分の世界を広げようとする。

 

同時に大人と比べて、感情の起伏も豊かだ。怒られれば泣くし、嬉しければ喜ぶ。怪我をしても、恐れず新しいことに挑戦し続ける。子供の新しいことにどんどん挑戦するチャレンジスピリットは、感情の豊かさに支えられている。

 

恐怖を超えて戦いに挑む時の闘争心、子供が新しいものに挑戦する好奇心や冒険心、このような感情は、変化を求める際に、変化に対するリスクを超えるための勢いを与えてくれる。また、ショックな出来事も悲しみの感情によって、整理され、強く脳に記憶される。

 

このように、感情は変化の激しい環境に適応するために非常に重要な役割を果たす。それは大人を観察していても、感情豊かな人は比較的チャレンジスピリットが強い傾向にあることからもわかるだろう。

 

私たちが、変化を求め、より個性的に生きたいと思うのならば、自分の感情をよく観察し、何にワクワクするのかを知ることで、自分自身の個性の方向を発見することができる。好奇心や冒険心、闘争心は、私たちの個性を磨くための原動力になる。

「みんな一緒」と「みんな違う」

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※肋骨にヒビがはいったじゅんぞうくんと桜

 

個性的になるということは、突き抜けるということです。突き抜けるということは、現状を突き破り、ある部分において飛び出すという事です。

 

現状を突き破るには勇気がいります。現状維持という安心感は、生物の生存には欠かせないものであり、木の花ファミリーの「みんな一緒」には懐かしさすら感じる抱擁感があるからです。

 

しかし、横並びの「みんな一緒」には多様性がありません。多様性はそれぞれの個性が際立った「みんな違う」という世界です。「みんな一緒」は安定を生み出し、「みんな違う」は変化を生み出します。

 

私たちは、安定的に人間社会や、コミュニティを成り立たせ、一方で時代の変化に適応できるように、私たち自身も変化していかなければ、人類は生きていくことはできません。

 

それは人間に限らず、生物の進化が、種を存続させながら、環境に適応するために変化してきたことからしても理解できることです。つまり、安定と変化の両立は、この世界の法則なのです。

 

「みんな一緒」という安心感を勇気を持って突き破り、「みんな違う」けどコミュニティとして成り立っている。そういう世界を作ることが人類に対しての見本であり、進化の道筋に沿っているのです。

学ぶことについて

 

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※写真は関係ありません。かわいいから載せました。

 

何かを学習する際に、必要なことは記憶することと、思い出すことです。出来事の重要なポイントをしっかり記憶し、必要なタイミングで思い出す。ざっくりですが、それだけです。

 

そこでひとつの山場になるのが、出来事という大量の情報の中から、重要なポイントを抜き出すことです。それを、分析と言いますが、分析には感情はまったく必要ありません。

 

ネガティブもポジティブもヤバイという感情も必要ありません。ただ淡々と分析し、「なるほど、これならやれるぞ。」という実感が湧くポイントを自分で見つけ出すことです。

 

その実感があると、自然と前向きな感情が湧いてくるのですが、それは前向きになろうとしてなるものではないのです。

 

ただし、あまりにも学習しない人に対して、外から圧力がかけられることがあって、圧力がかかったことで、当人には反発や落ち込みなど様々な感情が湧いてきますが、そういった感情を与えることが目的ではなく、それはその人が学習するために背中を押しているだけなのです。

 

だからその意図を受け取ったら、あとは淡々と出来事を分析し、「これなら次に活かせるぞ」という実感を持って次に生かして行くだけなのです。

 

それを、ただ明るいとか暗いとか感情のところだけで判断しない方がいいということが言いたいことのひとつです。

 

もうひとつは、しっかり自分で考えないと、「よし、これならやれるぞ」という実感や前向きな感情は湧いてこないということです。誰かのアドバイスに乗っかって次へ行こうとする人がいますが、これもひとつの落とし穴です。


以上です

‪無意識の器を満たしてやれば、行動は自然と溢れ出る。‬

 

ーーー以下返信ーーー

 

創造性の下地となる記憶には、量と質がある。情報の量と、刺激によって深まる記憶の質である。たくさんの情報に触れる機会を持つことと、情報に触れる際の刺激が重要になる。

学校の勉強でノートに書きながら音読するとよく覚えられるのは、書く読む聞くという行為によってたくさんの五感を刺激しているからである。また、喜びや悲しみなど、感情が高ぶるほど記憶されやすいのも重要な点である。

 

一方、想起や閃き、直感などアウトプットには、いくつかのバリエーションがある。想起はただ記憶を引き出しているのに対して、閃きや直感は、様々な記憶を目的に合わせて再構築することが出来る。この能力は、脳の中でも古い層において行われるため、無意識の領域で行われる。

人間の行動のほとんどは、無意識の判断によって決定されている。それは、自分の行動は自分でコントロール不可能だという意味ではなく、無意識に働きかけることでコントロールが可能だという意味である。

 

自分を変化させたいならば、自分が進みたい方向の、情報の量と質を満たすことだ。それによってアウトプットされるものが変化し、結果として行動が変化する。‪無意識の器を満たしてやれば、行動は自然と溢れ出る。‬

気付きの連続の中に、神は存在する

以下は僕の返信文です。

ーーーーー

神は存在する。一人ひとりの人生の中に。人とこの世界との関わりの中に生まれる。それはセレンディピティというこの世界から与えられる小さな気付きの連続の中にある。

 

どのような宗教も、時代の流れの中で、その時代に必要とされる価値観を中心として、教義や世界観を作ってきた。
部族ごとの祖霊や守護神は、帝国になれば神話の中の一人の神に、巨大な国家になれば愛や慈悲など普遍性を持った教義に変化してきた。

全ての宗教は、時代に必要とされた価値観に合わせて成り立っている。それは意図して作られたのではなく、その時代に生きる人間と世界の関係性の中から、創造的なプロセスを持って生まれてきた。

 

必要な問いは、神は存在するかどうかではなく、新しい時代には、新しい信仰のあり方があるということだ。それを模索しなければならない。

そして模索は、どこかを探し回るのではなく、目の前の今この瞬間に与えられていることに気づくことである。その気付きの連続の中に、物語が生まれ、歩みは道となる。


その道は、独りよがりのものでもなく、かといって誰かに決定されるものでもない。

自身を含めたみんなが幸せになる道であり、それは自己中心的な自我にまみれては見えない道である。
自我を超えて、自身と他者が幸せになれる最適解を見出すプロセスもまた創造的なのだが、その創造の連続、セレンディピティの気付きの連続の中に、神は存在する。

 

 

おわり

新しい信仰のあり方

 

 

ーーー以下は僕の返信ですーーー

 

古代においての信仰の対象は、全ての自然物に宿るの精霊達であった。自然は豊かな恵みをもたらし、荒ぶる災害でもあり畏敬の対象だったからだ。

やがて人々が集落をつくり、より大きな集団で暮らすようになってからは、集団の意識の統合のために、信仰の対象は、祖先の霊、祖霊が信仰の対象となり、それはやがて守護神となっていった。

紀元前5000年頃、メソポタミア流域では、シュメール文明において、人類で初めての戦争が始まり一斉に世界中に戦火が拡大した。日本に戦火が届いたのは2世紀後半の倭国大乱である。

 

現代まで約7000年間争いを続けて来た西洋では、自分達を正当化し、異文化に対して排他的な一神教が成立する。また、争いばかりで心休まる場所がないため、信仰の世界観は現実逃避的なファンタジックな理想郷を描くようになった。

一方、東洋や日本は西洋より争いが激しくなかったため、他文化を受け入れ吸収し続けた多神教が主流になった。世界観は、現実直視の傾向が強く、気の流れを読む易経や、人間関係を重視した儒教などが生まれた。

 

このように信仰の形や対象は、時代の変化とともに大きく変化して来た。そんな中で、科学は、西洋で延々と続く戦争によって発展してきたため、自然や生物にやすやすとメスを入れる残酷さを併せ持つ。

現代に至り、科学が神を規定しようとするが、科学が自然に対する畏敬の念を持たなければ、神や自然の本質的な性質を解明することはできない。

 

また、我々がイメージする神という存在も、時代とともに変化する不確定なイメージであるという柔軟な視点を持たなければ、思考の袋小路に陥ってしまうだろう。

その上で、昨日の連続ツイートで返信したように、新しい信仰のあり方を私たち人類は発見しなければならない。それは、現代のあらゆる宗教よりも普遍性をもち、人類が錆びつかせてしまったシャーマニズムという脳機能を復活したものになるだろう。

 

いただく心と創造性

いただく心とは、自分以外のものに対する敬意の心である。

 

自分以外のものに対する敬意があると、何か疑問や問題に出会った時、ふとした出来事から答えがもらえる。そういった偶然の幸運な出会いをセレンディピティというそうだ。

 



自らの小ささを知るために、世界の奥深さを知ろう。

自分の能力をはるかに超えた、偉大なものを知る人は、謙虚で創造的だ。

 

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1ヶ月間の真学校@木の花ファミリー – “天然循環” という生き方