やゆよのあゆみ

木の花ファミリーという共同体で、人と自然と調和して暮らしています。生きることとか人間のこととかを書いていきます。

新しい信仰のあり方

 

 

ーーー以下は僕の返信ですーーー

 

古代においての信仰の対象は、全ての自然物に宿るの精霊達であった。自然は豊かな恵みをもたらし、荒ぶる災害でもあり畏敬の対象だったからだ。

やがて人々が集落をつくり、より大きな集団で暮らすようになってからは、集団の意識の統合のために、信仰の対象は、祖先の霊、祖霊が信仰の対象となり、それはやがて守護神となっていった。

紀元前5000年頃、メソポタミア流域では、シュメール文明において、人類で初めての戦争が始まり一斉に世界中に戦火が拡大した。日本に戦火が届いたのは2世紀後半の倭国大乱である。

 

現代まで約7000年間争いを続けて来た西洋では、自分達を正当化し、異文化に対して排他的な一神教が成立する。また、争いばかりで心休まる場所がないため、信仰の世界観は現実逃避的なファンタジックな理想郷を描くようになった。

一方、東洋や日本は西洋より争いが激しくなかったため、他文化を受け入れ吸収し続けた多神教が主流になった。世界観は、現実直視の傾向が強く、気の流れを読む易経や、人間関係を重視した儒教などが生まれた。

 

このように信仰の形や対象は、時代の変化とともに大きく変化して来た。そんな中で、科学は、西洋で延々と続く戦争によって発展してきたため、自然や生物にやすやすとメスを入れる残酷さを併せ持つ。

現代に至り、科学が神を規定しようとするが、科学が自然に対する畏敬の念を持たなければ、神や自然の本質的な性質を解明することはできない。

 

また、我々がイメージする神という存在も、時代とともに変化する不確定なイメージであるという柔軟な視点を持たなければ、思考の袋小路に陥ってしまうだろう。

その上で、昨日の連続ツイートで返信したように、新しい信仰のあり方を私たち人類は発見しなければならない。それは、現代のあらゆる宗教よりも普遍性をもち、人類が錆びつかせてしまったシャーマニズムという脳機能を復活したものになるだろう。