やゆよのあゆみ

木の花ファミリーという共同体で、人と自然と調和して暮らしています。生きることとか人間のこととかを書いていきます。

僕と世界が調和する道

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ロータスランドの屋根から池に飛び込もうとする僕

 

ここのところ書き続けている「個と全体の調和」や「個性と社会性の調和」についての話は、実はここ4.5年の、僕自身の心の課題なのです。

その課題とは、自分の特徴である、長所で言えば「探究心の強さ」、短所で言えば「こだわりの強さ」というものを、どうやってこのコミュニティの中で、社会の中で、調和的に発揮していくかというものです。

 

 

丁度、4月19日、僕の誕生日に、それに関わる出来事がありました。それは今、木の花ファミリーのアンテナショップになっているロータスランドに、第2駐車場の案内看板を作るための打ち合わせの時のことです。「5分10分で終わる話だと思ったけど、どうしてあんなに時間がかかったのかな」と打ち合わせの後で、相手のようこちゃんから伝えられました。

建築設計を大学で専攻していたため、見やすさと美しさが求められる案内表示、サインのデザインに対して面白みを感じていました。そのデザインに対する関心が、僕の中に「この方が良い」という強い発想が生まれ、結果として意見のすり合わせに時間がかかってしまいました。

特に美しさや分かり易さといった、個人の感覚や認識によって差が生じやすいデザインに関わるものは、意見の食い違いは起こりがちです。その分、自分の感覚と他者の感覚の違いが知れる良い機会でもあり、面白みもあります。

 

 

自分が何に興味があり、それが他者や社会にとって、有益(探究心)なのか、有害(こだわり)なのか。また、他者との認識の差はどうして生まれたのか。そういったことを振り返ることで、次の自分が取り組むべき、具体的な方向が見えてきます。

僕の場合は、美しさや分かり易さという、感覚や認識の個人差をどのように埋めていくかに、興味を向けて探求していくことで、自分自身の特徴を生かし、有益な存在に変えていくことができます。

そうやって、ある一瞬の出来事を分析してつなげていくことで、点と点が線で結ばれ、自分の人格や、仕事の取り組み方という目に見えないものが見えてきます。そしてそれにどのように取り組んでいけばいいかも自然と見えてきます。

 

 

人間には、目に見えるものだけでなく、その背景にあるものや存在、構造や法則を見ることが出来る能力があります。それが宗教や科学といったこの世界の認識、他者理解や自己認識という個性の認識を支えています。

新しいことに挑戦することで、必ず間違いや問題事に出会います。それは、今まで自覚していなかった自分の性質を認識する機会です。その出来事を客観的に振り返ることで、より現実と整合性の取れた自己イメージを認識をすることが出来るようになります。

この世界の調和は、自分と世界との調和によってもたらされます。それは、世界の中で自分がどのような偏りを持っているのかを知ることから始まるのです。

個性の表現が全体の調和を保つ


みかちゃんの描いた、一根と六根の世界の絵です。

 

私たちは、なんとなく「そうだね」と答えるとき、本当に自分のことがわかっているのでしょうか。

 

 

子供達と接した時に出てくる言葉や感情から、驚きとともに自分を発見する。

久しぶりに実家に帰った時に、親兄弟と接した時に湧いてくる言葉から、自分を発見する。

仕事を教えたり、心の話を伝えたりする時の、自分の心の動きから、自分を発見する。

思いもしない失敗から、自分が思っていた自分像と違う自分を発見する。

 

 

私たちの心の中には、多様な人格が存在しています。親としての、子としての、上司としての、部下としての、兄としての、弟としての、時には誰かと暖炉の火を囲んでいるときの人格なんてのもあるように思います。

 

その多様な人格は、不思議なことに、自分の外に表現しないと自己認識できません。自己認識の難しさは、認知の構造が原因だと言われていますが、要するに出すことでしか自分を知ることができない、というのが私たち人間の性質です。

 

そういった多様な人格が、自分の中にあることを自覚できるようになると、自分というひとりの人間と上手に付き合っていけるようになります。

 

例えば、なぜ今自分が怒っているのかが分からず怒っていると、感情がおさまりませんが、その理由がわかると、自然と落ち着きます。それは、自己認識が自己コントロールに直結している証拠です。

 

そこで重要なのは、自分との上手な付き合い方が、自己認識であるのと同じように、私たちという「場」との上手な付き合い方もまた、自己認識なのです。

 

「場」に存在する人がどのような考えを持っているかを理解することで初めて、私たちはその「場」がどういう方向に進めば良いかが分かるのです。

 

ひとりの人の心の健全さが、自己認識によってもたらされるのと同じように、ひとつのコミュニティの健全さも、一人一人が意思表明するという集団認識によってもたらされています。

 

そこには、個性の表現が、全体の健全さを保つという、この多様な世界の不思議な仕組みが存在します。ひとりひとりが、自分の個性というライトで世界を照らすことが、この世界を桃源郷に向かわせていくのです。

感情は個性を磨く原動力

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 ※木の花ファミリーの子供達

 

自己観察において、感情は非常に重要でわかりやすいセンサーになる。それについては、また後に書くとして、今回は新しいことに取り組む際の、感情の役割について話してみたい。

 

子供を観察していればわかることだが、子供は新しいものに自然と興味を持つ。好奇心の塊であり、新しいもの、新しいことをどんどん吸収し自分の世界を広げようとする。

 

同時に大人と比べて、感情の起伏も豊かだ。怒られれば泣くし、嬉しければ喜ぶ。怪我をしても、恐れず新しいことに挑戦し続ける。子供の新しいことにどんどん挑戦するチャレンジスピリットは、感情の豊かさに支えられている。

 

恐怖を超えて戦いに挑む時の闘争心、子供が新しいものに挑戦する好奇心や冒険心、このような感情は、変化を求める際に、変化に対するリスクを超えるための勢いを与えてくれる。また、ショックな出来事も悲しみの感情によって、整理され、強く脳に記憶される。

 

このように、感情は変化の激しい環境に適応するために非常に重要な役割を果たす。それは大人を観察していても、感情豊かな人は比較的チャレンジスピリットが強い傾向にあることからもわかるだろう。

 

私たちが、変化を求め、より個性的に生きたいと思うのならば、自分の感情をよく観察し、何にワクワクするのかを知ることで、自分自身の個性の方向を発見することができる。好奇心や冒険心、闘争心は、私たちの個性を磨くための原動力になる。

「みんな一緒」と「みんな違う」

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※肋骨にヒビがはいったじゅんぞうくんと桜

 

個性的になるということは、突き抜けるということです。突き抜けるということは、現状を突き破り、ある部分において飛び出すという事です。

 

現状を突き破るには勇気がいります。現状維持という安心感は、生物の生存には欠かせないものであり、木の花ファミリーの「みんな一緒」には懐かしさすら感じる抱擁感があるからです。

 

しかし、横並びの「みんな一緒」には多様性がありません。多様性はそれぞれの個性が際立った「みんな違う」という世界です。「みんな一緒」は安定を生み出し、「みんな違う」は変化を生み出します。

 

私たちは、安定的に人間社会や、コミュニティを成り立たせ、一方で時代の変化に適応できるように、私たち自身も変化していかなければ、人類は生きていくことはできません。

 

それは人間に限らず、生物の進化が、種を存続させながら、環境に適応するために変化してきたことからしても理解できることです。つまり、安定と変化の両立は、この世界の法則なのです。

 

「みんな一緒」という安心感を勇気を持って突き破り、「みんな違う」けどコミュニティとして成り立っている。そういう世界を作ることが人類に対しての見本であり、進化の道筋に沿っているのです。

学ぶことについて

 

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※写真は関係ありません。かわいいから載せました。

 

何かを学習する際に、必要なことは記憶することと、思い出すことです。出来事の重要なポイントをしっかり記憶し、必要なタイミングで思い出す。ざっくりですが、それだけです。

 

そこでひとつの山場になるのが、出来事という大量の情報の中から、重要なポイントを抜き出すことです。それを、分析と言いますが、分析には感情はまったく必要ありません。

 

ネガティブもポジティブもヤバイという感情も必要ありません。ただ淡々と分析し、「なるほど、これならやれるぞ。」という実感が湧くポイントを自分で見つけ出すことです。

 

その実感があると、自然と前向きな感情が湧いてくるのですが、それは前向きになろうとしてなるものではないのです。

 

ただし、あまりにも学習しない人に対して、外から圧力がかけられることがあって、圧力がかかったことで、当人には反発や落ち込みなど様々な感情が湧いてきますが、そういった感情を与えることが目的ではなく、それはその人が学習するために背中を押しているだけなのです。

 

だからその意図を受け取ったら、あとは淡々と出来事を分析し、「これなら次に活かせるぞ」という実感を持って次に生かして行くだけなのです。

 

それを、ただ明るいとか暗いとか感情のところだけで判断しない方がいいということが言いたいことのひとつです。

 

もうひとつは、しっかり自分で考えないと、「よし、これならやれるぞ」という実感や前向きな感情は湧いてこないということです。誰かのアドバイスに乗っかって次へ行こうとする人がいますが、これもひとつの落とし穴です。


以上です

‪無意識の器を満たしてやれば、行動は自然と溢れ出る。‬

 

ーーー以下返信ーーー

 

創造性の下地となる記憶には、量と質がある。情報の量と、刺激によって深まる記憶の質である。たくさんの情報に触れる機会を持つことと、情報に触れる際の刺激が重要になる。

学校の勉強でノートに書きながら音読するとよく覚えられるのは、書く読む聞くという行為によってたくさんの五感を刺激しているからである。また、喜びや悲しみなど、感情が高ぶるほど記憶されやすいのも重要な点である。

 

一方、想起や閃き、直感などアウトプットには、いくつかのバリエーションがある。想起はただ記憶を引き出しているのに対して、閃きや直感は、様々な記憶を目的に合わせて再構築することが出来る。この能力は、脳の中でも古い層において行われるため、無意識の領域で行われる。

人間の行動のほとんどは、無意識の判断によって決定されている。それは、自分の行動は自分でコントロール不可能だという意味ではなく、無意識に働きかけることでコントロールが可能だという意味である。

 

自分を変化させたいならば、自分が進みたい方向の、情報の量と質を満たすことだ。それによってアウトプットされるものが変化し、結果として行動が変化する。‪無意識の器を満たしてやれば、行動は自然と溢れ出る。‬

気付きの連続の中に、神は存在する

以下は僕の返信文です。

ーーーーー

神は存在する。一人ひとりの人生の中に。人とこの世界との関わりの中に生まれる。それはセレンディピティというこの世界から与えられる小さな気付きの連続の中にある。

 

どのような宗教も、時代の流れの中で、その時代に必要とされる価値観を中心として、教義や世界観を作ってきた。
部族ごとの祖霊や守護神は、帝国になれば神話の中の一人の神に、巨大な国家になれば愛や慈悲など普遍性を持った教義に変化してきた。

全ての宗教は、時代に必要とされた価値観に合わせて成り立っている。それは意図して作られたのではなく、その時代に生きる人間と世界の関係性の中から、創造的なプロセスを持って生まれてきた。

 

必要な問いは、神は存在するかどうかではなく、新しい時代には、新しい信仰のあり方があるということだ。それを模索しなければならない。

そして模索は、どこかを探し回るのではなく、目の前の今この瞬間に与えられていることに気づくことである。その気付きの連続の中に、物語が生まれ、歩みは道となる。


その道は、独りよがりのものでもなく、かといって誰かに決定されるものでもない。

自身を含めたみんなが幸せになる道であり、それは自己中心的な自我にまみれては見えない道である。
自我を超えて、自身と他者が幸せになれる最適解を見出すプロセスもまた創造的なのだが、その創造の連続、セレンディピティの気付きの連続の中に、神は存在する。

 

 

おわり