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やゆよのあゆみ

コミュニティという生き方から、心と世界の情報を発信します。

‪無意識の器を満たしてやれば、行動は自然と溢れ出る。‬

 

ーーー以下返信ーーー

 

創造性の下地となる記憶には、量と質がある。情報の量と、刺激によって深まる記憶の質である。たくさんの情報に触れる機会を持つことと、情報に触れる際の刺激が重要になる。

学校の勉強でノートに書きながら音読するとよく覚えられるのは、書く読む聞くという行為によってたくさんの五感を刺激しているからである。また、喜びや悲しみなど、感情が高ぶるほど記憶されやすいのも重要な点である。

 

一方、想起や閃き、直感などアウトプットには、いくつかのバリエーションがある。想起はただ記憶を引き出しているのに対して、閃きや直感は、様々な記憶を目的に合わせて再構築することが出来る。この能力は、脳の中でも古い層において行われるため、無意識の領域で行われる。

人間の行動のほとんどは、無意識の判断によって決定されている。それは、自分の行動は自分でコントロール不可能だという意味ではなく、無意識に働きかけることでコントロールが可能だという意味である。

 

自分を変化させたいならば、自分が進みたい方向の、情報の量と質を満たすことだ。それによってアウトプットされるものが変化し、結果として行動が変化する。‪無意識の器を満たしてやれば、行動は自然と溢れ出る。‬

気付きの連続の中に、神は存在する

以下は僕の返信文です。

ーーーーー

神は存在する。一人ひとりの人生の中に。人とこの世界との関わりの中に生まれる。それはセレンディピティというこの世界から与えられる小さな気付きの連続の中にある。

 

どのような宗教も、時代の流れの中で、その時代に必要とされる価値観を中心として、教義や世界観を作ってきた。
部族ごとの祖霊や守護神は、帝国になれば神話の中の一人の神に、巨大な国家になれば愛や慈悲など普遍性を持った教義に変化してきた。

全ての宗教は、時代に必要とされた価値観に合わせて成り立っている。それは意図して作られたのではなく、その時代に生きる人間と世界の関係性の中から、創造的なプロセスを持って生まれてきた。

 

必要な問いは、神は存在するかどうかではなく、新しい時代には、新しい信仰のあり方があるということだ。それを模索しなければならない。

そして模索は、どこかを探し回るのではなく、目の前の今この瞬間に与えられていることに気づくことである。その気付きの連続の中に、物語が生まれ、歩みは道となる。


その道は、独りよがりのものでもなく、かといって誰かに決定されるものでもない。

自身を含めたみんなが幸せになる道であり、それは自己中心的な自我にまみれては見えない道である。
自我を超えて、自身と他者が幸せになれる最適解を見出すプロセスもまた創造的なのだが、その創造の連続、セレンディピティの気付きの連続の中に、神は存在する。

 

 

おわり

新しい信仰のあり方

 

 

ーーー以下は僕の返信ですーーー

 

古代においての信仰の対象は、全ての自然物に宿るの精霊達であった。自然は豊かな恵みをもたらし、荒ぶる災害でもあり畏敬の対象だったからだ。

やがて人々が集落をつくり、より大きな集団で暮らすようになってからは、集団の意識の統合のために、信仰の対象は、祖先の霊、祖霊が信仰の対象となり、それはやがて守護神となっていった。

紀元前5000年頃、メソポタミア流域では、シュメール文明において、人類で初めての戦争が始まり一斉に世界中に戦火が拡大した。日本に戦火が届いたのは2世紀後半の倭国大乱である。

 

現代まで約7000年間争いを続けて来た西洋では、自分達を正当化し、異文化に対して排他的な一神教が成立する。また、争いばかりで心休まる場所がないため、信仰の世界観は現実逃避的なファンタジックな理想郷を描くようになった。

一方、東洋や日本は西洋より争いが激しくなかったため、他文化を受け入れ吸収し続けた多神教が主流になった。世界観は、現実直視の傾向が強く、気の流れを読む易経や、人間関係を重視した儒教などが生まれた。

 

このように信仰の形や対象は、時代の変化とともに大きく変化して来た。そんな中で、科学は、西洋で延々と続く戦争によって発展してきたため、自然や生物にやすやすとメスを入れる残酷さを併せ持つ。

現代に至り、科学が神を規定しようとするが、科学が自然に対する畏敬の念を持たなければ、神や自然の本質的な性質を解明することはできない。

 

また、我々がイメージする神という存在も、時代とともに変化する不確定なイメージであるという柔軟な視点を持たなければ、思考の袋小路に陥ってしまうだろう。

その上で、昨日の連続ツイートで返信したように、新しい信仰のあり方を私たち人類は発見しなければならない。それは、現代のあらゆる宗教よりも普遍性をもち、人類が錆びつかせてしまったシャーマニズムという脳機能を復活したものになるだろう。

 

いただく心と創造性

いただく心とは、自分以外のものに対する敬意の心である。

 

自分以外のものに対する敬意があると、何か疑問や問題に出会った時、ふとした出来事から答えがもらえる。そういった偶然の幸運な出会いをセレンディピティというそうだ。

 



自らの小ささを知るために、世界の奥深さを知ろう。

自分の能力をはるかに超えた、偉大なものを知る人は、謙虚で創造的だ。

 

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1ヶ月間の真学校@木の花ファミリー – “天然循環” という生き方

 

 

 

イキイキと生きる

幸せになりたくない人は、なかなかいないと思うけど、何が幸せかは人それぞれ。

 

例えば、新しいことにチャレンジして成長し続けることで、日々をイキイキと生きている。そんな毎日もひとつの幸せ。

 

 

課題とスキルが高い状態で一致している時、仕事でもなんでも、時間を忘れて夢中になれる。目の前の今この瞬間に集中して生きている。

 

フローやゾーンに達することを目指す創造者やアスリートは、今までの自分と異なる自分へのステップを上がることの恐怖を克服しなければならない。

 

自らを常に次のステップに押し上げていくこと、自分に適度な負荷をかけ続けていくことが、イキイキと充実した日々をおくるためにはとても大切だということ。

 

 

群れの精神  -いさどんブログへの返信-

以下は、いさどんブログ「瞬間瞬間がオリジナル ~ 群れが個人を目覚めさせる」を読んで、僕の中から湧いてきた返信文です。

 

isadon-konohanafamily.org

だからこれからの時代は、個人が群れの中に暮らすのは生きるためではなく、目覚めるためだ。
群れの生活形態が個人を目覚めさせる。全体性を学び、エゴを洗い流し、世界の構造を理解するために、群れの暮らしが必要になる。群れて生きた結果、個人はそれぞれの歩みや個性にふさわしく目覚めていく。そしてそれぞれの事情を生かしながら、全体を創っていく。

 

 

私たちは、あらゆるものの共同体です。生物は細胞の共同体であり、人類は個人の共同体です。そして、細胞はDNAの共同体でもあると言われています。今人類が行き当たっている壁は、私たちの心の中にある自我です。その自我が何であるのかを知るためには、人類の歴史だけでなく、生命の歴史を振り返る必要があります。その歴史とは進化の歴史です。

 

私たちの進化の歴史は、私たちの体を構成するすべての細胞に、DNAとしてひとつひとつに刻まれています。ところが私たちのDNAの90~97パーセントがジャンクDNAと言われています。しかしそれはゴミではありません。ジャンクDNAも含めてすべて私たちの進化の履歴であり、可能性の引き出しなのです。

 

例えば、私たちが相手の痛みを理解するという「共感」を感じる時、痛覚系の脳回路が働いていることがわかっています。痛覚という感覚回路は、元々は肉体を守るためのセンサーとして生まれました。それを、他者に同化し理解するためにも再利用しているということなのです。そしてさらに面白いことに、私たちが物に対して「勿体無い」と感じるときにも痛覚が働いています。

 

勿体無い精神は、古くから日本人の心に刻まれています。日本江戸時代は、究極のリサイクル社会だと言われていますが、修理業、回収業という職がたくさんあり、物を最後まで使い尽くす社会であったと同時に、様々な雇用を生み出していました。桶や樽の修理職人、陶磁器の修理職人、鍋や釜などの金属の修理職人、紙や古着、傘の骨まで再利用していました。

 

勿体無い精神が社会に雇用を生み出し、環境負荷の少ない持続可能な暮らしを実現していました。これは、あらゆるものに同化する人間の共感回路が、人類の社会ひいては、地球環境においていかに重要かを示しています。

 

そして、その共感回路は私たちの進化の履歴であるDNAの使い回しによって実現しており、90~97パーセントのゴミと呼ばれるDNAは、実は可能性の引き出しなのです。引き出しが多ければ多いほど、変化に適応する幅が広がり、あらゆる局面に対応することが出来ます。つまり、ジャンクDNAは宝の山なのです。

 

DNAは他にも面白い働きを示しています。ノックアウトマウスという、遺伝子操作によってある特定のDNAだけを削除した実験用のマウスがいます。それによって、どのDNAがどのような働きをするのかを確かめるのですが、その実験によって表面的に変化を表す場合と、そうでない場合があります。なぜそのような現象が起こるのかというと、DNAには、欠落した部分を補う作用があるというのです。

 

これは、人間の脳が損傷した部分を補うのと同じように、また生態系が破壊された部分を補おうとするのと同じです。細胞の共同体である人体も、生物の共同体である地球にも、欠けた部分を補う作用があるのです。これはまだ十分に解明されていない分野ではありますが、DNAにもこの作用があり、実はDNAもまた共同体なのです。

 

つまり私たちは、DNAの共同体であり、細胞の共同体であり、人類は個人の共同体なのです。私たち生命は、地球で誕生して、この人間という形に進化するまで、常に種という共同体の単位で進化してきました。

 

私たちが「死」を持つのも、無限に増殖し生き続けるのではなく、有限の増殖「老い」を持つことで、種全体の新陳代謝を高め、種としての進化を高めるためです。決して、個の成長・個の進化が先にあるわけではないのです。私たちの存在の基盤は、個ではなく、群れ・全体のなのです。

 

存在の基盤ということは、精神構造の基盤もまた、個ではなく群れ・全体として出来ています。ハチやアリ、魚や鳥の群れが一糸乱れぬ集団行動を取るのを見れば分かるように、すべての生物の思考回路のベースは常に群れの存続、種の存続なのです。

 

だから、私たちは全体のために生きることに尊さを感じます。それは本能が共鳴しているのです。自己犠牲・献身は、私たちの心の奥にある群れの精神に共鳴します。私たちの心は、個よりも深いところに全体があるのです。私たち地球生命は、そのように成長してきたのです。

 

そして、後から個の精神が生まれました。自我です。これもおそらく他の生物にはない高度な精神構造なのでしょう。他者を否定し、自己を正当化し、現実とは違う幻想の世界を作り出します。その幻想を持って、人は本能に逆らい他者を欺き、殺し、奪ってきました。そしてあらゆるコミュニティを破壊してきました。クニ、ムラ、家族、親子。人間が全体性を育む基盤となる全ての共同体を破壊してきました。

 

そして、人類は自我によって、もうこれ以上バラバラにするものがないところまで来ています。私たちは改めて、これまでの人類の歩みを振り返り、立ち返る必要があるのです。私たちの心の奥にある、群れの精神を復活させるために、人類の群れである共同体の存在は無くてはならないものなのです。

 

私たち木の花ファミリーは、人類の進化の最先端です。その目的は、人類の群れである共同体の復活であり、群れの精神の復活です。それは、既にあったものを取り戻すという意味では回帰であり、一方で自我を超えるという前人未到の挑戦なのです。

 

f:id:Tenten:20160930100442j:plain2016年9月10日 稲刈り神事の写真

確信を持って生きること

人の数ほど人生がある。

人生は短く、一生の間にすべてを経験することはできない。

人は何かを諦めて、何かを選択する。

諦めと選択によって人は生きる方向を確かにする。

その人生に対する確かさ、確信が、人生に対する歩みを力強くする。

 

自らの人生に対する確信を、言葉にし表現することは、

自分の人生の方向を再確認することに繋がる。

再確認は、確信を強める。

自分の人生に対する確信を強めれば強めるほど、力が湧き、日々は輝きを増す。